この記事の結論
- トラブルの多くは価格でなく契約条項で起きる
- 仲介は成約で報酬を得る立場だと理解して使う
- 署名前に競業避止・表明保証・引継ぎ期間を確認
「そろそろ承継を考えたいが、M&Aでトラブルになったという話も聞くので踏み出せない」。私のところには、こうしたご相談が毎月のように届きます。体調のこと、後継者のこと、スタッフの生活のこと。いろいろな事情が重なった末の決断ですから、最後の最後で揉めたくないというお気持ちは、私自身も法人の譲渡・譲受の場に立ち会ってきてよく分かります。
結論から申し上げます。売る側が巻き込まれるトラブルは、譲渡価格の交渉そのものより、契約書の細かい条項と仲介会社の立ち位置の誤解から生まれることが圧倒的に多いです。逆に言えば、署名の前に確認すべき点は限られています。この記事では、実際に相談が多い失敗のかたちと、契約前に確認する5点を整理してお伝えします。
クリニックのM&Aでいうトラブルとは何を指すのか
クリニックのM&Aとは、診療所の事業や医療法人の経営権を第三者に引き継ぐ取引のことです。個人開業であれば設備・内装・カルテ・スタッフの雇用などを事業譲渡の形で渡し、医療法人であれば出資持分の譲渡や理事の入れ替えによって経営権を移す形が一般的です。株式会社の売買と違い、医療法や保険診療の手続きが絡むぶん、手順を一つ飛ばすだけで話が止まります。
そのうえで「トラブル」と呼ばれるものは、だいたい次の3層に分かれます。第一に、譲渡した後に自分の生活が制限される契約条項のトラブル。第二に、思っていた条件と違う相手を紹介された、報酬体系が不透明だったという仲介トラブル。第三に、スタッフや患者さんへの伝え方を誤った引継ぎのトラブルです。金額だけを見て走ると、この3つを見落とします。
よくある誤解
仲介会社は、売る側である自分の味方として条件交渉をしてくれる
「先生のために」という言葉を助言と受け取ってしまう
実際の構造
多くの仲介は売り手と買い手の間に立ち、成約したときに報酬が発生する立場
まとめること自体に価値がある仕事。だから自分の側の助言役は別に置く
誤解のないように申し添えますが、仲介会社が悪いという話ではありません。仲介という機能は必要ですし、私も助けられています。ただ、成約して初めて報酬が発生する立場である以上、「今回は見送ったほうがいい」という助言は構造的に出にくい。その前提で使えば、有力な味方になります。
売る側に多いM&Aの失敗事例は何か

ここでは、私が実際にご相談を受けた内容を、個人が特定されない形に丸めて類型化しています。特定の事例の断定ではなく、「こういう相談が多い」という私の見立てとしてお読みください。
| 失敗のかたち | 何が起きるか | 防ぎ方の勘所 |
|---|---|---|
| 競業避止の範囲が広すぎた | 譲渡後に非常勤で近隣に戻ることも禁止され、収入計画が崩れる | 期間・距離・診療科の3点を数字で限定する |
| 引継ぎ勤務が長引いた | 「半年のつもり」が2年拘束。買い手の院長に指示される立場になる | 期間・勤務日数・報酬・延長条件を先に書面化 |
| 表明保証で後から請求 | 未払い残業代や機器の不具合を理由に、譲渡代金の一部を返す事態に | 把握している懸念は隠さず開示し、補償上限と期限を設ける |
| スタッフが一斉に退職 | 公表の順番を誤り、承継直後に受付・看護が抜ける | 伝える相手と順番、伝える日をあらかじめ設計する |
| 手取りが想定を大きく下回った | 手数料・税金・残債返済を引くと、思い描いた老後資金に届かない | 基本合意の前に税理士と手取り額で試算する |
とくに私が惜しいと感じるのは、上から2つです。譲渡価格を数百万円上げる交渉には熱心でも、競業避止と引継ぎ勤務の条件はひな形のまま通してしまう。ところがこの2つは、譲渡後の数年間の働き方と収入をそのまま決めてしまいます。金額より人生に効く条項だ、という感覚を持っていただきたいところです。
スタッフの一斉退職も、買い手にとっては痛手ですが、売る側にとっても他人事ではありません。従業員の引継ぎが条件になっている契約では、退職者が出たことで価格の見直しを求められることがあります。日頃からの関係づくりが効いてくる場面ですので、院長とスタッフの信頼関係を整えておくことは、承継の準備そのものでもあります。
仲介トラブルはどこで起きるのか
仲介をめぐる相談で多いのは、報酬体系と契約の縛りです。契約書を交わす前に、次の3点だけは確認してください。
1. 手数料の計算基準
M&Aの仲介報酬は、取引額に応じて料率が下がるレーマン方式が一般的で、5億円以下の部分に5%前後というのが目安です。ここで確認したいのは料率よりも「何に掛けるか」です。譲渡価格に掛けるのか、負債を含む総資産に掛けるのかで、支払額は大きく変わります。あわせて、最低手数料の設定と、着手金・月額報酬・中間金の有無も確認します。クリニック規模の案件では、最低手数料が実質的な支払額を決めることが少なくありません。
2. 専任契約の期間と解除条件
専任媒介であれば、その期間は他社に相談できません。期間が長すぎないか、途中解約したときに違約金が発生しないか、解約後も一定期間は「その仲介が紹介した相手」との直接取引が制限されるのか。この直接取引の禁止条項は珍しいものではありませんが、範囲を読まずに署名すると身動きが取れなくなります。
3. 買い手候補の開示範囲
「有力な買い手がいる」と言われて話を進めたものの、条件を詰める段になって別の相手だったというすれ違いも起こります。候補を何社当たったのか、打診先のリストを事前に見せてもらえるかを聞いておくと、進み方が見えます。
契約前に確認する5点はどこか
ここが本題です。基本合意書、そして最終契約書に署名する前に、次の5点を自分の目で確認してください。顧問税理士や、医療法人のM&Aを扱った経験のある弁護士に同席してもらえるとなお安心です。
- 競業避止義務:期間は何年か、距離は半径何kmか、対象は同一診療科のみか。非常勤勤務や健診業務まで含まれていないか
- 引継ぎ(ロックアップ)条件:勤務期間・週何日か・報酬額・延長の可否。終了日が日付で特定されているか
- 表明保証と補償:補償の上限額と請求できる期間の定めがあるか。開示済みの事項が補償対象から外れているか
- 個人保証・リース・借入の扱い:院長個人の連帯保証がいつ解除されるか。金融機関とリース会社の承諾が取れる段取りか
- 手取り額の試算:譲渡対価から仲介手数料・税金・残債・退職金を引いた金額。持分あり医療法人か個人開業かで課税関係が変わるため、税理士に確認
5点目について補足します。2026年時点でも、医療法人の持分の有無や、事業譲渡か持分譲渡かで税負担は大きく変わります。役員退職金として受け取る部分の設計次第で手取りが動くこともありますので、必ず数字にしてから基本合意に進んでください。制度も税制も改定されますから、直近の取り扱いは顧問税理士に確認いただくのが確実です。
トラブルを減らす進め方はどうなるか
順番を守るだけで、防げるトラブルはかなりあります。私が周囲にお伝えしている進め方です。全体で6か月から1年程度をみておくと、無理のない交渉ができます。
- 自院の数字を整える(1〜2か月)
直近3期の決算書、患者数、レセプト単価、人件費率、リース・借入の残高を一覧にします。買い手に聞かれてから探すのでは、交渉のたびに足元を見られます。 - 自分側の助言役を決める
仲介とは別に、顧問税理士と、医療法人の案件経験がある弁護士を確保します。契約書のレビュー費用は、後々の紛争コストに比べれば安いものです。 - 譲れない条件を紙に書く
希望価格だけでなく、引継ぎ期間の上限、競業避止の許容範囲、スタッフの雇用条件、公表のタイミング。ここを先に決めておくと、交渉で流されません。 - 相手を選び、基本合意へ(2〜3か月)
金額だけで選ばないこと。診療方針、スタッフへの姿勢、資金の裏付けを見ます。基本合意の時点で主要条件を文章にしておきます。 - デューデリジェンスと最終契約(1〜3か月)
労務・税務・設備の調査が入ります。指摘されそうな点は先に開示するほうが、結果として価格が守られます。 - 公表と引継ぎ
スタッフへの説明は、契約が確定してから、院長自身の言葉で。行政手続き(保健所への届出、都道府県の認可、保険医療機関の指定)は日程が決まっているため、事務方と逆算表を作ります。
ステップ1で数字を整えるとき、人件費率とスタッフ配置が説明できないと交渉で不利になります。スタッフの適正人数の考え方を一度当てはめておくと、「なぜこの体制なのか」を自分の言葉で語れるようになります。また、事務長を配偶者が務めているケースでは、承継後の処遇が論点になりやすいので、事務長の役割と報酬の整理も早めに済ませておくことをおすすめします。
売却以外の選択肢も並べて考える
最後にお伝えしたいのは、M&Aが唯一の出口ではないということです。相談を受けていると、実際には「経営を手放したい」のではなく「今の働き方が限界」というケースが相当あります。体力的にきついのか、収益が苦しいのか、孤独なのか。原因によって打ち手は変わります。
診療は続けたいが休みが取れないという方には、代診と外部委託で仕組みを作るほうが合理的な場合があります。判断に迷う段階でしたら、週1日休む仕組みの作り方を先に試してから、それでも決心が変わらないときに承継へ進む。この順番でも遅くはありません。
私は現役の整形外科医として診療を続けながら、複数法人の経営と、病院・クリニックの経営改善のお手伝いをしております。承継の場面で立ち会うたびに感じるのは、良い譲渡ができた先生方は例外なく、価格ではなく条件の設計に時間をかけていたということです。契約前の5点、どうか署名の前にご自身の目で確かめてください。個別の判断が必要な部分は、必ず税理士・弁護士など専門家にご確認いただければと思います。
よくある質問
Q. クリニックのM&Aで一番多いトラブルは何ですか?
A. 競業避止義務と引継ぎ勤務の条件をひな形のまま通してしまい、譲渡後の働き方が想定以上に制限されるケースです。期間・距離・診療科を数字で限定してください。
Q. M&A仲介の手数料はどれくらいかかりますか?
A. 取引額に応じて料率が下がるレーマン方式が一般的で、5億円以下の部分に5%前後が目安です。実際はクリニック規模だと最低手数料の設定が支払額を左右します。
Q. 譲渡までにどのくらいの期間がかかりますか?
A. 資料整理から引継ぎまで、6か月から1年程度をみておくと安全です。行政手続きの日程が固定されるため、事務方と逆算表を作ることをおすすめします。
Q. スタッフにはいつ伝えるべきですか?
A. 最終契約が確定してから、院長自身の言葉で伝えるのが基本です。噂で先に広がると一斉退職につながり、価格の見直しを求められることもあります。
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